HIJK's 電魂盤 【理】 side Ipsychological depiction 02 INTELLIGENCE
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存在 by hijk at 10月21日(月)09時10分37秒

人類は、
地球以外にも惑星があることを知り、
太陽以外にも恒星があることを知り、
天の川以外にも銀河があることを知った。
この宇宙以外にも宇宙はあるだろう。
物理宇宙以外の存在様式もあるだろう。
そして「存在」すらも何かの一種に過ぎないのだろう。

Re: 自循論 by hijk at 04月13日(土)21時43分44秒

「複雑性に上限はあるのか」という問いに
「Yes」と答えたくなる理由は、
「認識」という形式が無限を許さないからだろう。
自己認識を中核とする世界の景色は、時間的・空間的に
遠くになるほどボヤけてしまうので、定量的に
情報量や複雑度を定義すること自体が本質的に困難だ。

自循論 by hijk at 02月18日(土)07時48分47秒

「私」といえば、知的存在が自分自身を指す、ということで、
「自」は自己言及・自己原因などを意味するもっと抽象的な言葉。

自循論にとっては「哲学的な一致の定理」と「意識濃度上限則」が
パズルの最後のピースだ。でも特に「複雑性に上限はあるのか」
という問題が難し過ぎて、チットモ考察が進んでいない。

「自」と「私」 by hijk at 01月09日(土)22時10分27秒

「自(self)」は、「世界(world)」と「私(I)」の構造である。
――自分が書いた文章を見返すと、「自」と「私」がゴッチャに
なっているので、頑張って見直さなくちゃいけないな。

現象的意識 by hik at 12月29日(火)17時41分38秒

現象的意識は、物理主義者から見ると錯覚に過ぎないとしても、
この錯覚こそが物理・生命・精神の相互依存による結晶・総合芸術である。
プランク長から可観測宇宙に至る60桁スケールの舞台上の、
ちょうど中央にギュッと詰まって現象した奇跡である。 
全ては、この奇跡から説明し返されるべきなのだ!

有限原理 by hijk at 12月26日(土)22時51分58秒

宙に浮いていた「有限原理」を、ようやく自循論に呼び戻せた。
20年前に直観したことを、なんとか体系化できた。

Re: 有と無の交差 by hijk at 11月01日(日)22時39分31秒

「純粋有」「純粋無」も「非概念」と言っておきながら、
それを概念として扱ってしまい、更にその奥の
「孤立有」「孤立無」へのアプローチを試みるのは、
やり過ぎ、というか、ちょっとでも集中を欠くと
自分でも何を考えているのか、分からなくなってくる。

有と無の交差 by hijk at 10月03日(土)12時45分35秒

極限まで客観を切り離したのが「純粋無」(純視点)、
その主観性自体をも消滅させたのが「孤立無」。
極限まで主観を切り離したのが「純粋有」(物自体)、
その客観性自体をも消滅させたのが「孤立有」。

この水準ではじめて、有と無は交差する。

すなわち、
「孤立無」=「純粋有」
「孤立有」=「純粋無」
思考の限界で、主観または客観の
完全な切り離しに失敗する現場で、
有と無の絶対性・独立性が、やっと否定される。

「有」と「無」 by hijk at 09月19日(土)12時31分26秒

純粋な無。
それは一度も有ったことなど無い。
いや、それが有ることなど今後とも想像できない。
目の前にそいつがポンと現れて、
「ほら、有ったでしょ」と言っても、
それでは決してない。
それを眺めている側に回ってしまう、
どうやっても有の手前の位置に回ってしまう、
純粋な無。
つまり、純視点=“現実”。
  
純粋な有。
それは一度も無かったことなど無い。
いや、それが無いことなど今後も想像できない。
目の前からそいつがポンと消えて、
「ほら、無くなったでしょ」と言っても、
それで無くなったりはしない。
その背後に遠退いて、その無さを支えてしまう、
どうやっても無の背後に回ってしまい、
無いことにできない、
純粋な有。
つまり、物自体=“実在”。

意識の濃度 by hijk at 10月12日(日)10時55分50秒

明瞭な意識状態から無意識に至るまでの段階を考えたり(外部から)測定したり
することはできる。その方向を逆にして、もっと明瞭でもっと濃密な意識というのは、
どこまで考えられるだろう。それはどんな感覚なのだろう。

大雑把に言って、意識にも質と量がありそうだ。量とは体験する情報量、質とは現実感。
睡眠中の夢は、情報量は少なくても現実感は強い。覚醒して精密な単純作業に
没頭している時は、扱う情報量は多くても現実感は弱い。

ある情報処理システムが、高速で大量の情報を取り扱うとして、その上限は何か
と言われたら、宇宙そのものまで行き着くだろう。一方、現実感、すなわち情報を
「この私にとってのクオリア」として評価する質は、「外来情報」と「この私」
という概念情報階層を各々どのように整理・維持しているかに依存するだろう。

有限の計算リソースを、外部情報の整理に使うか、自我の維持に使うか。
つまり意識の質=現実感とは、そのバランスなのだ。

ある情報システムが、外来情報の整理に専念しているとしたら、そこには一切の
クオリアは生じない。天気予報のためにフル稼働しているスーパーコンピューター
のようなものだ。一方、自我核(イマココの私)の維持に専念しているとしたら、
永遠に「私にとっての私にとっての私、にとっての…」と計算し続けることになる。
その場合もクオリアは生じない。

外界から得られる情報のパターンを抽象階層として再構成しつつ、それに最適なように
(寄り添うように)「私」という概念構造を維持する。この時初めて、
「私にとってのそれ=クオリア」が生じる。

情報処理システムは、外来情報の整理、自我核の定位、どちらかに極端に
計算リソースを割り振ってしまうと、現実感が無くなってしまう。
現実感が最高となるバランスが、どこかにあるのだ。
つまり現実感(意識の質)には上限がある!

物理主義者と現象主義者の激しい諍いを見ていると、人類の脳はわりと良いバランスを
達成しているように見える。平均的にはだいたい外部と内部にバランス良く
計算リソースを割り振っていて、そのバランスがちょっと片寄っている人が
物理主義者や現象主義者になるのだろう。

ところで、意識の量、つまり意識ソフトウェアが処理する情報処理量に、
上限はあるのだろうか。上限など無いようにも思われる。

しかしもし、「斉一な時空形式」と「量子化」が、意識という現象の前提ならば、
何らかの上限が設定できるかも知れない。時空のどこでも情報伝播速度には上限が
あって、情報処理が究極的にはビット(ゼロとイチの組み)の論理演算に還元
できるとすれば、意識ソフトウェアはどこまでも大きく複雑にはなれないのではないか。

ある情報処理ネットワーク(宇宙)があって、意識を構成する領域(自我)が
動的な境界で区切られている。自我の内部では、外来情報の整理と、これと並行して
「ひとつの」自我核が維持されている。だが、あまりに巨大な自我システムは、
情報伝播速度に上限があるなら、「ひとつの」自我を維持できないのではないか。

インフラとして使える思考回路や外部記憶装置は、いくら巨大でも構わない。
一方、リアルタイムにクオリア及びこれらを統覚的に束ねた現象的意識は、
時空の性質(光速度不変と量子化)の制約を受けるだろう。真我=無を定位
させようにも、定位処理よりも速く外来情報が定位を壊してしまうだろう。

定期的な睡眠によって自我定位回路を予め強靭にしておくとか、
色々なテクニックは使えるだろう。それでも、クオリアは、自我核を乱す。
自我核は修繕され続けねばならない。

ある自我核を維持できる境界の限界より外側は、無意識である。
無意識の裾野は、身体表面を越えて、物理宇宙の全体にまで広がっている。
もしくは、無意識の領域は全部まとめて物自体(不可知な実在)と言っても
良い。自我核から(そこから向こうは無意識という)意識界面までの
情報処理単位距離(意識半径)は、どれほどか?

意識半径が大きいということは、自我核(意識中心)という最抽象概念=無
までの抽象化ステップの多さに対応するだろう。AとBの共通項としてCが
抽象化されている、と考えれば(人間の脳は時空的にヘブ則がこれを
実装している)、粗い見積もりとしてNステップあれば2のN乗の概念を
意識内に収めることができるだろう。

N=16なら6万5千くらいの概念が意識のスクリーンに収まる。
それより外側の更に細かい概念(例えば視覚細胞XとYの同時発火、
などの細かすぎる概念)は無意識の奥に沈んでいる。さて、この粗いモデル
で言えば、私の問いは「Nに上限があるか」というものになる。

N(意識半径)が大きいと、情報処理場の中の「一連の」自我回路を
キープするのが難しくなる。リアルタイムには真我計算はそもそも
並列多層に分散処理されるが、例えば「一枚の絵」「動く赤い林檎」「この私」
といった情報を引っ張り上げようとする時、まとまりがつかない
ようでは困る。(多重人格のようになってしまう。)

まとめると、意識半径Nが大きくなると、一連の自我回路を維持するのに
必要なリソースが増え、一方で流入情報量も増えて擾乱(=クオリア)が増す。
だから、「一個の自我」として維持される意識システムの意識半径には
自ずと上限がある。

実際、人間の脳は、リアルタイムには幾つもの自我核の候補を
並列多層に走らせていて、それが「一本の」自我の物語に思えるのは
「思い出す」という動作に潜む(私=無を一個に集約する)機能の
結果に過ぎない。長期記憶の支援を受けても「一個の私」を
再構成できない人もいる。人間脳の意識半径は上限に近いと言える。

ここまで、意識の濃度について、
(1:質)外向き内向きの計算リソース配分(バランス)=現実感
(2:量)擾乱に耐えながら一連の自我回路を維持できる規模(意識半径)
その両面から考察し、上限があることを見てきた。
そして、人間脳は、上限に近いことを示す兆候を示している。

だから、これ以上、感覚器官を増強したり、脳神経回路網を
高機能化したり、計算リソースの配分を最適化したりしても、
たいして現実感は増さないし、意識の密度も増さない。
仮に一連の自我を維持しているとしたら、無意識の情報処理が増えるだけで、
意識の質・量の向上には殆ど貢献しない。

現象的意識にはまだまだ鮮明化・濃密化の余地があるのか考察してきたが、
今の人間は症例からしてだいたい上限に近そうだ。更なる高度化は
意識という個体内のシステムよりも、それらを組み合わせる社会システムに
よって為されるだろう。私たちは「一個の私」という幻想の、
ほぼ頂点を味わっている。

意識濃度を(1)質:現実感(2)量:情報処理量、に分けて考察してきた。
(1)現実感は、外向き内向きの情報処理にリソースを振り分ける
  バランスで決まり、どこかに最適点がある。
(2)一連の自我を維持するには意識システムが巨大過ぎてはならない。
以上より、意識濃度には上限があり、また、症例から、人類は
その上限に近い水準にあると考えられる。

各種生命や意識ソフトウェアの意識濃度も
(1)反回性回路の割合
(2)概念ノード数・脳神経細胞数
などから推測できる。また
(1)外界の情報処理ばかり(機械計算)か、自我持続ばかり(引きこもり)
  では現実感スコアは低い
(2)自我核が複数できている(分裂している)場合は
  一体の意識とは認めない。

現在の技術では確かに測定は不可能だろう。
基本的な方式としては、抽象階層の最底辺である感覚情報から
最上位である自我核(無)までのノード構造と変化の様子を
マップアウトして、計算リソースの配分状況や自我核の安定性や
総情報処理量から意識の質・量を推定することになるだろう。
(底辺の方は殆ど無意識層だろう。)

“実在”、“存在”、“現実” by hijk at 10月12日(日)10時40分43秒

“実在”とは、認識に依存せず在るもの。文脈によって、
物自体、無限乱雑場、過客観とも呼ぶ。
あらゆる認識可能性を支えるもので、
だから認識や言語の埒外にある(語り得ない)。

“存在”とは、在ると認識されるもの。一般的に、
客観的・主観的な在り方に区分されるが、
実際には客観と主観は分離できず、常に混ざり合う。


“現実”とは、私を中心に開けている唯一絶対の
世界の在り方。過主観や純視点とも呼ばれる。
現に見られているもの一切の対象の外側に仮設される
極点であり、従って対象として語ることはできない。


“現実”は、私だけの現実である。
“存在”は、みんなが共有する存在である。
“実在”は、誰とも関係ない実在である。

Re: <私>の因数分解 by hijk at 09月03日(水)13時38分23秒

別角度の検討からも、<私>の「語り尽くせなさ」に戻ってきた。

無限乱雑場の上には、可能なありとあらゆる体験があり
(その中のワンセットは一つの物理宇宙を共有する人間たちかも
しれないし、別宇宙、別バージョンの体験かも知れない)、
現実にはそのうち一つだけをこの私が体験している、と考える。

すると、「なぜこの体験がこの私に現実として選ばれているのか」
の理由は、この体験の内容「全部」になる。少しでも省略すると、
その省略部分に当てはまる別のバリエーションのありとあらゆる
体験にも、その理由が使えてしまい、「まさにこの体験こそが
現実に選ばれている理由」としては役立たなくなってしまう。

可能な全体験一般からこの現実体験が選ばれている理由は、
この体験内容そのもの全部しか有り得ない、という結論になる。

<私>の因数分解 by hijk at 11月27日(水)06時50分31秒

古今東西、沢山の人間がいるのに、それら数多の意識体のうち、
なぜ私は、この私なのか。そもそも、そのいずれでも無かった
(生まれなかった)かも知れないのに、なぜ現にこの私であるのか。

客観的に見る限りは誰か一人を特別扱いできないので
「それは偶然だ」としか言えず、主観的に見る限りは既に
今ここに存在してしまっている現実が全てであり
「それ以上の理由なんか無い」ということになる。
個々の異なる現実の全要素が丸ごと理由そのものなのだから、
誰かと同じ理由なんか有り得ない。

私が(よりによって)この私であることに、そうであること以上に
シンプルで情報量の少ない理由があるように思えてしまうところに、
ひとつの罠がある。そんな理由は無いのだ。私が体験している
全現実が単一の理由なのであり、それより単純な理由は無いのだ。

仮に今、物理的に全く同じ宇宙A、Bがあるとする。各宇宙は
情報的に閉じていて、お互いを位置付け合うことはできない。
この思考実験で、私は何故宇宙Bの私でなく、宇宙Aの私なのかと、
不思議がることは可能だろうか。 

不可能である。それどころか、本当にAとBの私の間を〈私〉が
1秒毎に往復しているとしても、全く問題は生じない。全体験が
全く同じなら、そのうちどれに〈私〉が宿っているかは、問題に
ならないのだ。逆に言えば、僅かでも違いがあれば、〈私〉の問題は
正当に問える。つまりこの問いの答えは、私の全体験そのものなのだ。

〈私〉の独在性の問題は、それ以上、理由を問えない。
問うている自分、それ全部が、丸ごとで単一の理由だからだ。

<私>の「語り得なさ」は、以下に因数分解されるのではないか。
 (a)万人に共通な、語る側であり語られる側にはならないという
  「語られ得なさ」
 (b)個々人の、莫大な経験情報の総体という単一理由の
  「語り尽くせなさ」

勿論、そう因数分解されたからといって、謎が解決するわけではない。
(a)は現象的意識やクオリアを生む自然法則の仕組み、
(b)は相互排他的な視点を生む空間なるものの由来、
という、巨大な謎に直結している。

現象的意識 by hijk at 11月13日(水)17時51分36秒

脳の物理的計算過程から、なぜ「私が実際に世界を見ている
と感じる、この現象的意識」が生じるのか。物理的な個々の
ニューロンの発火を幾ら束ねても、意識が生じるとは思えない。
物理学が意識を説明できるようには、どうしても思えない。

脳内の一群のニューロンの発火の時間的・空間的な分布は、
取り敢えず何らかの抽象的概念・表象に対応するであろう。
赤い色を見ているとか、顔を認識しているとか、掛け算とか
虚数とかの概念・表象に対応する発火分布があるだろう。

可塑性のあるニューラルネットワークは、演算それ自体が
記憶となり、発火のプロセスそのものが次の演算に影響を
与える。言わば「考え」自体が次の「考え」の入力になる。

脳が、外界の何物でも無いもの(すなわち私)という概念
に対応する発火パターンを持つとしよう。(この概念に
対応する発火パターンは幾通りにも実現されるだろう。)

その「私」という発火パターンを入力として、それですら
ない、もっと内側の「私」なるものが、次々と計算される
状況、つまり、「私にとっての私」という計算が、脳の中に
ごった返しているような状況が、意識に対応するのでは…?
(※このような計算を私は「真我計算」と呼んでいる。)

この「私」という概念は、取り出して他人に伝えようと
しても、私から見えている外界のあらゆるもの「でない
もの」という性格から、公共的な言語で伝えることが
できない。そのような語り得ない概念が、脳の中で、
延々と更新されている。それが意識状態なのだろう。

このような「私…私…私の計算場」に新鮮な外来の情報が
改めて流れ込んでくる時、それがクオリアとなる。
つまり「私にとってのそれ」という情報的性格を持つ。

しかし、このような状況も、脳の中にダイブして拡大して
見れば、あちこちでニューロンが発火しているだけである
ことに変わりはなく、現象的意識が生じているとは、
やはり思えない。心身問題は、チットモ解決していない。

(※このような自己参照の連鎖が計算されている時のみ
現象的意識は生じるのであり、サーモスタットや岩にも
意識があるとする汎経験論は、私には受け入れられない。
しかし、真我計算が行われるならば、その媒体が脳であれ
コンピューターであれ、意識が生じると考えているので、
構成不変の原則、多重実現可能性には賛成する。)

真我計算が行われ続けている脳=「『私』の計算場」は、
純粋な無を追い求め続ける計算場でもある。おそらく、
真空から物理的存在が湧き出ている物理宇宙の在り方と、
脳の中に渦巻く「私=無の計算場」が、ピタリと重なる
のだろう。脳の中の「私=無の計算場」が、時間・空間・
物質という物理存在の在り方の上手い比喩になっている
のだろう。それが「現実感=意識」を作っているのだろう。

「自=原時間・原空間・原論理」、という根本原理で、
物理世界も精神世界も成立し、重なり合っている。
それゆえ、物理的現実と主観的現実感が対応する。

生命の進化が、この重なり合い=チューニングを、
見つけ出した。このような「見る側(主観)」と
「見られる側(客体)」が重なり得る場が世界存在だ。

このあたりが心身問題に対する根本的理解、論理的
遡及の限界なのではないかと、今の私には思える。

自己無矛盾 by hijk at 11月07日(木)08時59分55秒

世界存在は知性一般による認識の総体を超えることは無いし、
世界存在を前提とせずに内部観測者たる知性一般も定義できない。
結局は、存在論と認識論は一致するように思える。

現象的意識 by hijk at 09月19日(木)10時47分30秒

いわゆる「リアリティ」とか「存在」に関する問いは、
言語的にアプローチするには限界があるが、
この当たり前に感じている現実感、意識のスクリーンは、
一旦「現実と現実感」「見られる私と見る私」「物理と精神」
のような【分離】が行われた後、これを【同一視】する、
という果てのない運動として記述されるべきものだろう。

それは一種の矛盾であり、動性を生み出す動性なので、
論理的な記号として静的に記述できない。ただ、これが、
当たり前に感じている現実そのものなのである。

実在Ω(無限乱雑空間) by hijk at 09月04日(水)15時45分20秒

“実在Ω”は、時空形式すら持たない。イメージとして
捉えることは、本来、不可能だ。

しかし敢えて表現するなら、無限次元の無限に大きく
無限の細部を持つ、不生不滅不増不減の何者かである。

無限の暗黒を占める多孔質のコンクリートの塊のようで、
それはどんなに遠くから見ても、どんなに近寄って見ても、
いかなる規則性も無く、果てもなければ、最小単位もない。

誰かが、何かの目的で、それを作ったのでは無い。
“実在Ω”は、ただ在る、という以外の、どんな属性も
持ってはいない。複雑とか単純とかいった属性もない。

だから、そこには全ての可能性が含まれている。

無限の乱雑のどこかには、任意の大きさの空隙もある。
林檎の形をした場所もある。人の脳の形をした場所も
ある。…無限の乱雑の中には任意の有限が含まれる。

無限の乱雑のどこかには、この宇宙の全ての歴史が
そっくり含まれている。その“内部”から、意識なる
現象を通して“見る”と、時空間としての生き生きと
動く宇宙が現象として立ち現れる。

しかし、意識を取り外して眺めれば、そこは
相変わらずの無味乾燥な“実在Ω”の一部に過ぎない。

直径4ミリのヒト脳の製作 by hijk at 08月30日(金)09時29分48秒

http://jp.wsj.com/article/SB10001424127887323779204579041830786385934.html

こいつが意識を持っていないと証明できるだろうか。

要素と関係 by hijk at 08月19日(月)13時01分47秒

人間は、確定した要素と、それら要素間の関係、という
パターンで、物事を捉えていく。要素の方が静的に捉えられ、
扱い易いのだが、より根源的な真実は関係の方にあって、
これが世界や自我に関する議論を捉え難くしている。

全体と部分と意味 by hijk at 08月19日(月)06時11分35秒

全体それ自体は常に無意味であり、全体に対置された
諸部分の関係が意味を持つ、という自循論の定理から、
私にとっての私の人生全体とは無意味であって、人生の
内部の諸瞬間の関係のみが意味を持つ、と結論される。

実在 by hijk at 05月24日(金)16時55分46秒

実在論の系譜に位置付けるなら、自循論は「存在的構造実在論」や
「現象主義」に近いのだと思う。

by hijk at 05月24日(金)06時34分10秒

私にとって、私が生まれる前、私が死んだ後は、無である。
私にとって、認識する側としてのイマココは、認識される側、
すなわち森羅万象、それでは無いという意味で、無である。
私とは、この2種類の無によって縁取られた何者かである。

論文『自循論』 by hijk at 04月09日(火)12時28分58秒

自循論の骨格を明確化するために、論文として纏めてみた。
やってみて、自分自身の考えも整理できたので、よかった。
http://www.netlaputa.ne.jp/~hijk/philo/self_referencism.pdf

「自己無矛盾性」という基準が重要なのだが、自循論の文脈で
それはどういう意味なのか、そこの考察が足りていないと思う。

原論理 by hijk at 01月29日(火)13時21分49秒

自循論で言うところの原論理とは何か。表面的には…
 ・A=B、A≠B(同じと違うの区別)
 ・A∧¬A=φ(有と無の区別)
…この2つが原論理として要請される式になる。

存在を識別し、判断を行う、もっとも根源的な
知性の論理形式として原論理が要請されるのだが、
しかし、Aと¬Aが与えられた時、どうして一方が
有(図)の地位を占め、反対が無(地)の地位を
占めるのか。その必然性はどこから来るのだろうか。

自循論は、「自であり続ける方」=「(原時間的に)
同じで在り続ける方」=「無(地)」と定義する。

有(図)は、無(地)に対して(原時間的に)変化
していく方が割り当てられる。しかし、これだけでは
『有の変化に伴い補集合の無の輪郭も変化するので
図と地のどちらを有と無に割り振るのかは決まらない、
つまり対称性を破る原理がどこにもない』という
批判が当然有り得る。それは全く正しい批判である。

ここで「<私>に中心化された世界」という概念が
必要になる。<私>を構成する真我=絶対無が要請
される。その<無>bではない、ありとあらゆるもの、
それらではない、そして先ほどの<無>b ですらない、
限りなく純化されていく<無>a 、その<無>の
連鎖が不動の<私>を構成・仮構する。原時間上は
<無>b→<無>a と更新されても、それは同じ
<無>=<私>であり続けるのだ。

かくして、<私>から出発しない世界は、ごった返す
有だけがあり、存在-非存在の区別すら存在しない。
<私>が成立する世界でこそ、有と無はそれぞれの
地位を占めて、“同じ”と“違う”という原論理に
確たる意味を提供することが出来るようになるのだ。

自循論 by hijk at 10月25日(木)08時47分11秒

 現象的意識を持つ何十億という平等な存在のうち、なぜ、
他の誰かではなく、よりによって、私はこの私なのか。
平等な現象的意識にどんな“成分α”が加わったから、私は
この私の現象的意識を内側から実体験しているのだろうか?

(a) 素粒子という在り方を許している宇宙の性質3点セット:
  (1)原空間性(※位相性と分離性:有の相互排他性)
  (2)原時間性(※無の連続性と有の変化)
  (3)原論理性(※有(物質)と無(真空)の区別)

(b) 自己意識という演算形態:(=極小の自)
  「自我Xで無いあらゆる認識対象Ω」で無いもの
  として自我X'を焦点化・純化し続ける計算プロセス

 この両者が、たまたまピタリと重なり合っている(対等で
あり、どちらが出発点とも言えず相互依存・循環している)
在り方のことを「世界」と呼ぶ。(=極大の自)なお、ここで、
 X=無、Ω=有、X-Ω関係=原空間、X-X'関係=原時間。

 こういう世界の突拍子も無い一回限りの奇跡的な有り方が
“成分Α”(大文字のアルファ)で、個々人がこの成分のおこぼれを
自分なりに(b)のプロセスの中で焦点化し、しきりに不思議がって
いるのが“成分α”(小文字のアルファ)であろう。

ある意味、梵我一如的な発想である。


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